今回は『Shim Sham Shimmy(シムシャムシミー)』の創始者であるレオナルド・リードについてご紹介します。


 『Shim Sham Shimmy』とは、同じく1920年代から伝わる『BSコーラス』と並び、タップダンサーなら「Must Know!(知らなければならない)」と言われる、1コーラス(32小節)のルーティン。4つのフレーズ(シムシャム、プッシュビート、タックアニー、ハーフブレイク)から構成されたシンプルなナンバーで、タップダンサーの讃美歌とも言われています。



 レオナルド・リードは1907年1月7日、アメリカ・オクラホマで白人の父、チェロキー(原住民)と黒人のハーフの母の間に生まれました。


 家庭の事情により父親には会ったことがなかった彼は、2歳の時に母親が亡くなった後、後見人に引き取られ、10歳くらいの時にカンザスシティに移り住みますが、後見人と上手く行かず、たびたび家出をしてました。しかし、学校には必ず行っていたのですぐに見つかり、家に連れ戻されることの繰り返し。そのうち、学校にも行かなくなってしまいました。


 12歳くらいの頃は非常に素行が悪く、飲酒やアルコール購入の罪などで警察につかまるほどに。仲間たちは、じき両親が迎えに来て釈放されるのですが、彼は両親がいなかったために4年間を更正施設で過ごしました。


 家に帰れない日々の中、少年院行きを覚悟していた彼を救ってくれたのが、仲間の通っていた学校の校長先生。その自宅にしばらく身を寄せ、落ち着きを取り戻したものの、人生に対する悲観的な考えは消えなかったとレオナルドは当時を振り返ります。


 そんなレオナルドがダンスに出会う最初のきっかけになったのが、15歳の頃に大流行していたチャールストン。彼も見よう見まねで踊るようになりました。


 そのころ、彼は劇場でスナックを売る仕事をしていましたが、ショーの間はスナックを売ることが出来ないので、舞台袖でダンサーたちが踊る姿を眺め、ダンサーに「Show me that, Show me a step」などと声をかけて、教えてもらっていました。そして、盛んに行われていたチャールストン・コンテストに出場し、のきなみ優勝をさらって行ったのです。


 そして、1922年には『Hits and Bits』という名前の黒人ショーにレギュラー出演。彼はクォーターだったので、黒人ショーにも白人ショーにも出演することができ、時には白人として、時には黒人として扱われたと言います。



 次の転機となったのが、テディ・ライトというタップダンサーとの出会いでした。テディから生まれて初めて習ったタップのステップは、トレンチとタイムステップ。1925年には、ニューヨークへ移住し、1927年にはLafayette劇場で『Sundown revue』に出演。劇場のすぐ横にあったHoofers Clubへ頻繁に通うようになりました。


 Hoofers Clubは、ジョン・バブルスやビル・ボージャングル・ロビンソンといった有名なタップダンサーから、まったく無名のタップダンサーまで、多くの人が集う場所。そこでたくさんのタップダンサーから学び、影響を受けましたが、特に“piano”と呼ばれていた人から数多くのことを学びました。その人物のプロフィールは何ひとつ明確ではありませんが、皆から“piano”と呼ばれていたことだけはよく覚えているとレオナルドは言っています。


 そうしてタップでもめきめきと頭角を現したレオナルドは、1930年代にはウィリー・ブライアントとタップダンスチームを組み、『リード・アンド・ブライアント』という名でボードヴィルショーで活躍。オープニングナンバーとソフトシューを8分間踊りました。


 通常6分以内でパフォーマンスを行うことが要求されるボードヴィルショーでは、8分間は異例の長さ。彼らが人気と実力を兼ね備えたコンビだったということを、この数字が証明していると言ってよいでしょう。


 その後、『The Whiteman Sister Troupe』というチームのショーに出演。そこで、当時は『Goofus』と呼ばれていた現在の『Shim Sham』の原型となるナンバーを踊りました。それを見たBillyという少年がニューヨークで『Goofus』を踊り、それに肩のシェイクである“Shimmy“を加えたことにより、『Shim Sham Shimmy』という呼び名が生まれました。


 現在ならば盗作と問題になるところですが、「僕は気にしてないよ」と大らかに受け止めていたレオナルド。いわば産みの親である彼は、今も“Mr. Shim Sham”と呼ばれ、多くの人に敬意を表されています。


 1934年以降は、プロデューサーとしても活躍したレオナルド・リード。Harlem Opera Houseではオリジナル作品である歌とダンスのスペキュタキュラーショー『Rhythm Bound』を上演。


彼自身もオープニングナンバー、ソフトシュー、軍人ナンバー、フィナーレに出演しましたが、そのすべてがタップナンバーでした。このほか、Cotton Clubのショーのプロデュースや、Apollo Theaterのマネージャーも務め、作曲家・編曲家としても活躍しました。


 晩年は後身の育成にも力を注ぎ、Hollywood Dance Studioで講師を務め、94歳までタップフェスティバルなどでも教えていました。私も何度かクラスを受けたことがあり、彼にとって最後になってしまったクラスにも参加しました。


 レオナルドは『Shim Sham』のほか、『Freeze Shim Sham』『Shim Sham 2』『Revenge Shim Sham』を残しました。多くの人がShim Shamにそれぞれの工夫を加えたものを創り出しましたが、今でも彼の功績を讃えて、オリジナルの『Shim Sham』を大切にしているタップダンサーはたくさんいます。彼と一緒にオリジナル・ステップの『Shim Sham』を踊った時間は、私にとって特別な宝物になっています。



 また、彼はゴルフの腕もプロ並み。白人以外はプロゴルファーになれない時代だったので、ゴルファーとして活躍することはありませんでしたが、晩年、タイガーウッズからトロフィーが贈られたという話は有名です。


 2000年にはThe American Music AwardsのLifetime Achievement 賞を受賞し、2002年にはオクラホマ大学よりHonorary Doctorate of Performing Arts degree(博士号)を授与された後、2004年4月、カリフォルニアの病院で老衰のため永眠。97歳でした。




関連映像

(1999年6月2日、92歳で出演したOrpheum Theaterでのステージの模様)

http://www.youtube.com/watch?v=Ke1DyVZG3O0&feature=player_embedded

 
●みすみ "Smilie" ゆきこ
http://www.artntap.com

 NYでDr.ヘンリー・レタン、ブレンダ・バッファリーノに師事。その後、数多くのタップマスターから学び、Dr.ジミー・スライド、ダイアン・ウォーカーから多大な影響を受ける。帰国後はライブ・TV・CM出演、CDへの参加など幅広い分野で活躍。

 海外のさまざまなタップ・フェスティバルにゲスト講師・ソロパフォーマーとして招かれるなど、国際的に活躍中。Japan Tap Dance Scholarship Programを主宰し、才能のある日本人タップダンサーをアメリカに送り出すサポートを行っている。

ITA日本代表 ARTNタップダンススタジオ主宰



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